大友宗麟が築城した、奇想天外の臼杵城跡へ
築城は1562年、築城主は大友宗麟。その後、城主は大友氏から福原氏、太田氏に移り、最後は稲葉氏にて幕を閉じました。明治の廃城令により建造物のほとんどは撤去されてしまいましたが、2カ所の櫓や石垣、空堀などは昔の面影を見ることができます。
臼杵城は臼杵湾に浮かぶ「丹生島」と呼ばれる天然の要塞です。
よく「どこが島なんだ?」と目が点になりますが、かつて城の周りは海でした。その周りはほぼ埋め立てだということ、知ってました?
江戸期から埋めたて工事が始まって、徐々にそのエリアは拡大されていきました。今では城のすぐ下は商店街や民家が立ち並び、交通網が発達してます。
春は桜がとってもキレイ。お花見スポットとして臼杵でも人気が高いエリアです。人口がもともと4万超えない小さな町なので、張り切って場所取りする必要もなければ、満車で駐車場を探し回る心配もありません。
■お城に登り、二の丸、本丸を散策してみる
曲がりくねりながら灰石でできた階段を一段一段登って行きます。
壁面にくり抜かれた小穴は登ってくる敵に銃口を向ける小窓です。
のぞいてみると、銀行と行政施設が見えます。狙い撃ちされたら、筆者のすずめの涙程の預金がなくなってしまうので非常に困ります(笑)。
さて、一番最初に見えてくる櫓は江戸時代から現存する「畳櫓」です。
この櫓、食べられるそう(笑)。壁に干しワラビやヨモギ、芋のつるといった兵糧を練りこんでいるんだとか。兵糧攻めにあっても安心ですね。
さぁ、大問櫓を抜けて、城跡へ進んで行きます。
城跡は奥行きがあり、ゆっくり歩いて40〜50分くらいでしょうか。
春は降り注ぐほどの満開の桜と花吹雪が幻想的な光景を映し出します。
二の丸の庭園があったところ、現在は護国神社となっています。
大友時代は教会のようなものも設置され、日本で二番目にクリスマスパーティーをしたとか…(ガイドさん談)
戦国時代の石垣も残っています。
特徴は大きな石。お城の入り口付近の石垣と比べて見ると一目瞭然。無骨で巨大な石が無造作に積まれています。積み方は10種類もあるそうです。
■まことしやかに囁かれる、ウンのつく道へ
お次は赤い鳥居が見える、卯寅口(うとのくち)の方。
「白殿」の愛称で呼ばれる卯寅稲荷神社。
下の方へ下って行くと、卯寅口門脇櫓が見えてきます。
お城の勝手口の役割を果たしていたそうです。時期によっては武器庫だったりしたようです。
さて、ここからはちょいとおシモの話を(お食事中の方すいません)。
この卯寅口は海に面した搦手口(裏口)だったらしく、いろんな積荷がここで受け渡されていたといいます。
実は殿様のう●こもしかり。
今は埋め立てられていて面影もないですが、ずっとこの下は海になっていました。そしてこの話をしてくれたガイドさんは、この道を「う●こロード」と名付けています。
実はここで、殿様のう●こが取引されていたそうです(笑)。
なんのためのう●こかというと、農場肥料のため。
というのも、かつての日本では人糞を発酵させ農業肥料にしていた時代がありました。GHQ元帥であるマッカーサーが来てからしばらくは続いていたそうですよ。
さらに人糞にも階級があり、いいものを食すお殿様のう●こは高値で売りさばかれていたとか。例えばお殿様が便秘で不調の場合でも、奥方さま、お女中のもそれなりの価格で売れたそうですよ。
信じたいか信じたくないかは「アナタ次第」。
最後はうっかりおシモの話で締めてしまいましたが、臼杵城は城主を変えながら姿形も変わっていき、戦国時代から江戸時代にかけて、徐々にリノベーションされていきました。時代の変化で住まい方も変えていくのは、今のライフスタイルにも通ずるところがあります。
戦うための城から、藩主のご威光を示す城へ。
狭く先の見通しの悪い道を、広く見通せる道へ変化させていたり…。
今でいうところの「部屋数はもういらないから、壁を取っ払ってワンルームにしちゃおう」的な発想に近いのかもしれません。
時代に翻弄されて生きているのは、当時も今もそんなに大差ないことが分かります。
たまにはゆっくり城跡見学など、いかがですか?
■臼杵城跡(臼杵公園)
〒875-0041 臼杵市大字臼杵丹生島
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