幕末の儒教者の功績を伝える「毛利空桑記念館」と、勇敢な武将が残した「法心寺」
幕末から明治を駆け抜けた、鶴崎出身の教育者を知る資料館
大分駅からJR日豊線で約10分、大分川や大野川沿いに広がる大分市・鶴崎地区。大分川・大分市の北東部にあたるこの地域は、郊外エリアの中でも住宅街や店舗、学校などがあり、ファミリー層を中心に人気の場所です。
鶴崎は、江戸時代には熊本藩が瀬戸内海へと向かうための拠点となった場所だったそうで、たくさんの人やモノが行きかかう場として栄え、幕末期にはあの坂本龍馬や勝海舟も鶴崎に立ち寄ったといわれています。
そんな幕末~明治初期激動の時代に、この地域で活躍したのが鶴崎出身の儒教者・教育者であった「毛利空桑(もうりくうそう)」です。空桑は、鶴崎の脇蘭室や、日出の帆足万里のもとで学んだあと、熊本や福岡でも学びを深め、文政7年(1824年)に、現在の大分市・常行に私塾「地来館」を開いた人物。
彼の史料や遺品、歴史について展示されているのが、県指定史跡であり、塾跡でもある「毛利空桑記念館」です。
空桑は「文ありて武なきは真の文人にあらず。武ありて文なきは真の武人にあらず」と唱え「文武両道」を実践し、子弟の指導に尽力した人といわれています。
88歳で亡くなるまで生涯、青少年の教育に力を注ぎつづけ、その功績には明治17年(1884年)、「従六位」が与えられました。
また資料館の隣には、空桑が開いた私塾で、約900人もの門下生を輩出したといわれる「知来館」の跡や、空桑の自宅であった「天勝堂」跡も残されており、江戸の学問と歴史を伝える基調な建物となっています。
勇敢な戦国武将・加藤清正公が建てた「法心寺」
「毛利空桑記念館」から歩いて数百メートル先のところにある「法心寺」。ここは慶長6年、加藤清正公が建立した寺です。寺の入り口には仁王像があり、本殿には加藤氏の位牌や、清正公の遺品も残されています。
毎年8月に行われる、鶴崎の夏を代表する祭りのひとつ、「二十三夜祭」は、この清正公が慶長16年に死去して以来、法要が行われることから始まったといわれています。また敷地内にある銀杏の木は、清正公が地面に突き刺した杖が大木になったと言い伝えられたもので、秋には鮮やかな色で寺を彩ります。
寺の前には清正公の銅像もあり、鶴崎きっての歴史的著名人を大切に偲んでいる街の雰囲気がうかがえます。
鶴崎を代表する由緒ある場所は、大分の歴史を知ることのできる穴場的スポット。ぜひ近くへ立ち寄った際は、足を運んで江戸時代の鶴崎に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
■毛利空桑(もうりくうそう)記念館
大分市鶴崎381-1
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