国際外交に尽くした重光葵の軌跡たどる「山渓偉人館」

2023/09/10

# 国東市

日本の外交官の第一人者「重光葵」の功績を伝える施設

 

大分空港から車で約10分。国東市安岐町の、のどかな町の中の一角にある『山渓偉人館(さんけいいじんかん)』は、日本の戦前・戦後に外交官・外務大臣として指名を果たした、「重光葵(しげみつまもる)」さんの功績や思いを偲び、伝えるために作られた資料館です。

 

重光葵さんは明治20年に大野郡三重町(現:豊後大野市)生まれ。母方の実家で安岐町の本家に後継ぎがいなかったため、明治31年に養子となり、重光家26代目に。

杵築中学を卒業し、熊本第五高等学校(現:熊本大学)へ進学、さらに明治44年には東京帝国大学を卒業。その後、外務省の第一人者としての道を歩んだ方です。

 

外交官を目指すきっかけになったのは、高等学校時代に出合ったドイツ語教師ハーン氏の影響が大きかったのだとか。ハーン氏は、重光氏の優秀さをかって、自らと一緒に生活をするなどしたそうです。

 

 

強い精神力と責任感で苦難を乗り越えた人物

 

山渓偉人館②

 

明治44年に外交官試験に合格した後、日本外交の第一人者としてドイツやイギリス、中国、ソ連などとの平和外交に勤めていましたが、昭和7年に中国の上海でテロに遭い、右足を負傷し切断するという重傷を負います。

 

しかし重光氏は外交官としての責任感と精神力で、辛さと痛みをこらえながら任務を全うしたのだそうです。

 

その後、太平洋戦争の時に外務大臣に就任するのですが、ここでもまた苦難が。

 

昭和20年の敗戦の際、A級戦犯の判決を受け、東京・巣鴨の拘置所で禁固刑として7年、服役することになってしまったのだそうです。

世界平和のために尽くしていたのにも関わらず、有罪判決をうけるという受難をうけつつも、昭和27年以降、政界へと進む偉業を遂げます。

そして昭和31年には「国連総会」で、演説を行い、日本の国際社会への復帰と平和を強くアピールし貢献したのだそうです。

 

 

重光氏の多くの功績をたどる資料や展示品が並ぶ

 

山渓偉人館③

 

館内には、重光氏の功績を物語る、多くの書物や日記などの資料、右足を失った後に利用していたとされる車椅子や松葉杖、愛用品など、戦中・戦後の貴重な遺品の数々が展示されています。

 

山渓偉人館④

 

大分に生まれ、度重なる辛い経験をしながらも強く生きた重光氏の、外交官としての想いや人柄を偲ぶことができる貴重な展示品ばかりです。

 

また、館内にいるスタッフの方に尋ねれば、分かりやすく説明もしてくれ、重光氏が残した功績や偉大さを知ることができるほか、トランスホールでは重光氏についての人物像や日本の外交のために尽くしてきた内容をまとめた、ビデオを観ることもできます。

 

山渓偉人館⑤

 

敷地には胸像も。こちらは県出身の彫刻家・朝倉文夫氏によるものだそうです。

 

今、日本が世界のいろんな国とつながり友好関係を深められているのも、重光氏のような熱い想いを持ち活動を続けてきた偉人の歩みがあったからこそなんだと、感謝の気持ちすら感じながら歴史をたどることができます。

平和の尊さを、こちらの施設を通して考えてみるのもよいかもしれません。

 

 

■山渓偉人館(重光葵資料館)

国東市安岐町下山口567-3

 

 

 


 

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